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全国戦没学徒慰霊祭
〜淡路島「若人の広場」へ、
磐梨会長以下九名が出向〜
六月二十四日、兵庫県淡路島の南端、大見山山頂に位置する「戦没学徒記念若人の広場」に於いて、「全国戦没学徒慰霊祭」が斎行された。
この祭典は、今上陛下御即位二十年記念英霊顕彰事業として、佐賀県神社庁研修所主催、兵庫県神道青年会の協力のもと、神道青年会九州地区会員約四十名が参加した。
(当県からは、九名が出向)
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二十四日午前新神戸駅に集合し、バスで若人の広場まで移動した。車中にて天皇陛下奉祝ビデオ「慈しみ」、兵庫県神道青年会制作映画「若人の広場は今」を見学し、阪神淡路大震災の影響、又、若人の広場の現状についてを学んだ。
若人の広場に到着後、直ちに白衣白袴に着替え参加者全員で慰霊祭の斎場設営に取りかかった。
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若人の広場は昭和四十二年、志半ばにして困難に殉じた英霊を慰め、併せて生き残った動員学徒との交流の場として建設された。ここに祀られているには学徒勤労令などで軍事施設や軍需工場で労働に従事した学徒であり、此の広場は戦没学徒の慰霊を全国規模で追悼する国内唯一の施設である。慰霊塔は学徒の象徴としてペン先を模った物であり、併設の展示資料館は塹壕をモチーフに建設されている。
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昭和四十七年十一月八日には当時の皇太子殿下・同妃殿下(今上天皇皇后両陛下)の御台臨仰ぎ、竣工五周年を記念して『戦没若人のための慰霊祭』が斎行された。「この広場を訪れる今日の若者が、ここの刻まれた歴史の事実とその重みを深く考え、ここに燃へ続ける『ともしび』の理念を心に刻み、平和への願いを絶やさず明日に向かって生きていくことが、戦没した学徒へのせめてもの慰霊でありませう」との御言葉を賜った。
しかし現在、銘板に「若人よ天と地をつなぐ灯たれ」と刻まれ、永遠の灯を灯すことを約束していた慰霊塔下の聖火設備には炎は灯っていない。来訪者の激減と運営する二財団の経営不振などのトラブルにより半鎖状態となり、震災が追い討ちとなって手つかずの状態になっていた。施設は荒廃し、ベニア板が張られたドアガラス、散乱した一部の展示品やガラス片、剥落した石材痛々しく転がっている。荒廃はしていても多くの人が慰霊のために訪れていた様子をうかがい知ることができ、そのことによってさらに哀しい、寂しい気持ちが胸に広がった。
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強い日差しの中、斎主以下祭員が斎場に参進し、国歌斉唱の後、慰霊祭が斎行された。かなりの暑さを感じる中ではあったが、奉仕員・参列員各々が心を一つにして戦没学徒の御霊に対して慰霊の誠を尽くすと共に、若人の広場の現状に思いを巡らせつつ、厳粛のうちに祭典は終了した。
その後、淡路市内の伊弉諾神宮に移動し正式参拝、「戦没学徒慰霊の現状」と題して本名孝至宮司様より御講話を賜った。慰霊祭にて若人の広場の現状を自らの目で見ると共に、現在に至るまでの過程等を本名宮司様から聞くことによって、若人の広場についての知識を深められたと思う。
現在のような状態では施設はただの箱であり、そこに人々の気持ちが無ければまったく意味は無いと思う。このような状態になっていることへの戦没者達の落胆、さらに若人達への慰霊に未来への希望を託そうと此の施設を建てるために尽力した人々の悔しさ、それらの人々の無念を二重に感じた。
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近年、近隣諸国の発言などの影響もあり、日本人は「平和・反戦」と
いう言葉をむやみに追いかけ、先の戦争を徹底的に否定し、国難に
身を殉じた英霊や戦没者達に対する敬意や感謝の意識が急速に薄
れているように感じる。これは戦争を知らない若い世代に限ったこと
ではなく、世間一般に広まってきている気がするし、中には戦没者
達を冒涜するかのような発言をする者もいる。国の為に命を捧げた
人々に感謝の気持ちを持って慰霊する、そんなただ単純な事を当た
り前のようにすることができない、これは由々しき問題であると言え
るだろう。
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今回の慰霊祭では、戦没者達、又此の施設を建てるために尽力した人々の気持ちを多少なりとも肌で感じることができたと思う。神職として此の経験生かし、人々が誇りを持って、堂々と戦没者達への慰霊が行えるような社会になる様にひたすら努力をしていく。そう決意を固めた旅であった。
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